「違い」は「エラー」ではない ――「不登校」という言葉から考える、多様な学びのかたち
「違い」は「エラー」ではない
――「不登校」という言葉から考える、多様な学びのかたち
こんにちは。Mirai.α運営事務局のMaru.です。
人は、なぜ自分と異なるものを、受け入れられないことがあるのでしょうか。
私たちは一人ひとり、異なる存在です。
生まれ持った性質と、その後の経験のなかで育まれたものが重なり、容姿も、考え方も、感じ方も、得意なことも、それぞれに違います。
何一つとして同じ生命は存在しません。
その多様な生命が、それぞれの役割を担いながら、この地球で共に生きています。
それにもかかわらず、いじめや差別、排除は、今もなくなっていません。
なぜなのでしょうか。
「違い」をエラーとみなす集団の力
人間には、自分と似たものに安心し、異なるものに警戒する傾向があります。
かつての生存環境では、集団のルールから外れた行動や見慣れない存在が、危険につながる場合もあったでしょう。周囲と同じであることは、集団の秩序を保ち、自分の安全を確かめる方法の一つだったのかもしれません。
しかし、違いに戸惑う感情が生まれることと、異なる人を傷つけたり、排除したりすることは同じではありません。
問題は、集団が「同じであること」を強く求めたときです。
同じ速さで学ぶこと。
同じ方法で行動すること。
同じ場所に通うこと。
同じ基準で評価されること。
こうした均一性が強く求められる環境では、その枠から外れた人が「違う人」ではなく、「間違った人」や「困った人」と見なされやすくなります。
さらに、限られた評価や承認を奪い合う環境、逃げ場の少ない閉鎖的な集団では、違いが攻撃の対象になる危険性も高まります。
違いを「個性」として生かせるのか、
それとも「エラー」として排除してしまうのか。
それは、集団の仕組みにも大きく左右されます。
縄文社会の痕跡が教えてくれること
縄文時代に、いじめや排除がどの程度存在したのかを、考古学によって直接確かめることはできません。
また、縄文時代は一万年以上にわたり、地域差も大きいため、単一の社会像として語ることには慎重さが必要です。
それでも、当時の人々が、支援を必要とする人と共に生きていたことを示す痕跡は残されています。
北海道の入江貝塚からは、幼少期から重い四肢麻痺を抱えていたと推定される人物の人骨が見つかっています。その人物が思春期後半まで生きていたことから、周囲の人々による長期的な介助や支えがあったと考えられています。
生産性だけで人の価値を測るのであれば、
その生命は守られなかったかもしれません。
この痕跡は、誰かが直接的な「成果」を生み出せないときにも、その存在を共同体の一員として受け入れ、共に生きる社会があり得ることを示唆しています。
そこから現代社会が学べることは、少なくありません。
一つの評価軸だけで、人の価値を決めないこと
一人ひとりの異なる力や役割を認めること
一つの集団に閉じ込めず、複数の居場所や人間関係を持てるようにすること
心構えだけでなく、仕組みを変える
いじめを減らすために必要なのは、「人に優しくしましょう」と教えることだけではありません。
集団を固定化しすぎないこと。
合わない場所から離れられること。
別の場所で、その人らしい役割を見つけられること。
心の教育とともに、違いが排除につながりにくい環境をつくることが必要なのだと思います。
「不登校」という言葉がつくるイメージ
ここで考えたいのが、「不登校」という言葉です。
かつて日本では、「学校嫌い」や「登校拒否」という表現が広く使われていました。
1992年、文部省は「登校拒否はどの児童生徒にも起こりうる」という認識を示しました。その後も、「特定の子どもに特有の問題ではない」という考え方が示され、「不登校」という行政用語が定着していきました。
子どもの怠惰や性格だけに原因を求めないという意味で、これは大切な変化でした。
しかし、「不登校」という言葉を聞いたとき、多くの人はどのような印象を受けるでしょうか。
私自身は、「不」という漢字に、「本来あるべき正解である登校を満たしていない」というニュアンスを感じることがあります。
学校に通っていない。その一つの状態だけで、子ども自身に何かが欠けているかのように受け取られてしまう。そのことに、私は常にもどかしさを感じています。
その子が学んでいないことを意味しません。
成長していないことでも、未来を失ったことでもありません。
学校から距離を置くことで、心や身体を守っている子もいます。学校以外の場所で、自分に合う学び方を見つける子もいます。今は学ぶことよりも、安心を取り戻す時間を必要としている子もいます。
「不登校」は、その子の性質や価値を表す言葉ではなく、ある時点における、学校との関係を示す言葉にすぎないのです。
世界では、どのように表現されているのか
学校に通わない、あるいは通えない状態を表す言葉は、国や制度、支援の文脈によって異なります。
英語圏
School Refusal / School Avoidanceは、心理的な理由から学校に通うことが難しい状態。Chronic Absenteeismは、理由を問わず一定以上欠席している状態を示す統計・行政用語です。Truancyは、無断欠席という規範的・法的な意味を含みます。
ドイツ語圏
SchulabsentismusやSchuldistanzなど、学校から離れている状態を広く捉える表現があります。
フランス
Phobie scolaireは、学校に対する強い不安や恐怖を表し、Déscolarisationは、より広く学校制度から離れている状態を表します。
韓国
학교 밖 청소년(学校外青少年)という、学校の「外」にいる若者として捉える法的・行政的な表現があります。
これらは、日本語の「不登校」と完全に同じ意味ではありません。また、言葉を変えるだけで偏見がなくなるわけでもありません。
それでも、「本人の欠陥」ではなく、「置かれている状態」「必要としている支援」「学校以外の学び」に目を向けようとする言葉のあり方から、学べることはあるはずです。
私たちは、子どもたちをどう呼びたいのか
「不登校」を、すぐに別の一語へ置き換えるだけでは、十分ではないかもしれません。どのような言葉も、使われ方によっては、やがて新しいレッテルになってしまうからです。
それでも、言葉を問い直すことには意味があります。
「自分に合う学びの場を探している子ども」
「安心を取り戻す時間にいる子ども」
その子の状態に合わせて、いくつもの表現があってよいのではないでしょうか。
Mirai.αでは、検索や制度上の案内に必要な場合、「不登校」という言葉を用います。
しかし、それを子どもの性質や欠陥を表す言葉だとは考えていません。
私たちが見つめたいのは、「学校へ行っているか、いないか」だけではなく、その子が今、何を感じ、何を必要とし、どのような場所なら安心して成長できるのかということです。
違いを、社会の可能性に変えるために
AIが急速に発展している今、私たちは大きな分岐点に立っています。
AIを、すべての人を同じ基準で測り、効率化するためだけに使うのか。
それとも、一人ひとりに合った学び方や表現方法、社会とのつながり方を広げるために使うのか。
違いを「修正すべきエラー」と考える社会ではなく、違いによって新しい可能性が生まれる社会へ。
一人ひとりが異なる強みを生かし、それぞれの場所で輝ける社会へ。
子どもたちに必要なのは、
「正しい一つの道」に戻すことではありません。
その子に合った道を、共に探していくことなのだと思います。
Mirai.αは、学校の内と外を分ける境界ではなく、
子どもたち一人ひとりの未来へつながる、
新しい学びの入り口でありたいと考えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
Maru.
参考:文部科学省「不登校の児童生徒への支援について」
参考:文部科学省「誰一人取り残されない学びの保障に向けた不登校対策(COCOLOプラン)」
参考:J-STAGE「北海道入江貝塚出土人骨にみられた異常四肢骨の古病理学的研究」
参考:U.S. Department of Education「Chronic Absenteeism」

